前回のブログの中で可哀想な人なんていないと書きました。
実は、私が一番得意な引き寄せは『気になった情報が勝手に集まってくる』ことなんですが、前回可哀想な人なんていない、と言うことを書いていると、最近そんな情報が次々と入ってくるようになりました。
可哀想と言われてたけどそうじゃなかった、という話が次々と現れてきたというのは、それをしっかり掘り下げて書く時が来たのかな、と感じましたので私なりの言葉でまとめていこうと思います。
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私は可哀想な子。周りに言われるからそう思ってた。
Sさんは生まれつき、目が見えませんでした。目が見えないことで、親からも、周りからも『可哀想、可哀想』と言われて育ちました。
そう言われて育ったので、Sさん自身も『そうか、私は可哀想な子なんだ‥』と思って生きてきたそうです。
見えないからお化粧もしません。見えなくても、教えてもらってお化粧をしている方はもちろんいらっしゃいますが、Sさんはお化粧の必要性を感じなかったのでしませんでした。
見えないという事は、五体満足の人から見れば、【ハンデ】を持っていると見なされる事が多い事や、Sさんの容姿や見た目が華やかではないことを理由に、Sさんは両親から『あなたは結婚できないだろう、可哀想に』といつも言われていたそうです。
ところが、大人になったSさんは、ある男性に出会いました。その男性は、Sさんにプロポーズをしました。Sさんは『私は目も見えないし化粧もしてないこんな容姿だし‥』と言ったそうですが、男性は大笑いし、『それが何なの?僕は今のそのままのあなたが素敵だと思っているし、一生を共にしたいと思ったのだけど?そんな自分のことを否定しているけれど、あなたはそのままで素晴らしいんだよ、僕があなたをこれからもっと笑顔でいられるような人生にしていくから結婚しようよ』と言ってくれて、結婚し、今もとても仲良く暮らしているそうです。
この話を聞いてSさんは本当に可哀想だったと思いますか?
Sさんにとっては、生まれつき盲目だったことから、見えない世界が当たり前です。当たり前だからSさん自身は何一つ不自由には感じていませんでした。
だけど親や親戚、周りの人達から『〇〇できなくて可哀想、目が見えないばっかりに苦労して可哀想』と言われ続ける中で、『自分は可哀想な子なんだ』と認識するようになっていきました。
【可哀想】という言葉は、その人の中の価値観(自分だったら嫌だ)という眼鏡をかけて、他人を見ているから現れる感情に過ぎません。
本人が実際どう感じているかは関係なく、見ている側の偏見でしかないのです。
可哀想な人はいなかったのに、周りが自分の中の価値観で他人を『可哀想』と決めつけて口にした瞬間、そこに可哀想な人が出来上がってしまった。個人的にそういう感情になったとしても、可哀想という言葉は気軽に本人に向かって口にしてはいけないと思います。
【可哀想】は被害者を作る、そして時には加害者も作ってしまうこともある
Cさんの家庭は共働きでした。小さいお子さんは保育園に預けて働いていて、Cさんのご主人のお母さん(以下お義母さん)にお迎えをお願いしていたそうです。お義母さんは、Cさんの子供(つまり自分からみれば孫)に対して『ママが働いていて寂しいよね、可哀想にね』とよく言っていたそうで、そのたびにCさんはモヤモヤしていました。
ある日残業でかなり遅くなり、仕事をようやく終えて慌ててお義母さんの元へ行くと、我が子は眠ってしまっていて頬には涙の跡がありました。
お義母さんは『かわいそうに、ママはまだなの?って大泣きして泣き疲れて寝ちゃったのよ。寂しかったのよ。』とCさんに言いました。その瞬間、Cさんは溜まっていた思いが噴き出し、泣きながら『こんな思いをさせるなら、私、もう仕事を辞めたい。私だって子供ともっと過ごしたい。生活費が足りていればすぐに辞めるのに‥!』と言ってしまったそうです。
お義母さんは、自分の息子が一馬力でやっていけないほどお給料が少ないことを知らなかったし、Cさんも、ご主人のプライドがあるからと思って、今まで収入の事は言わないようにしていましたが、今回ばかりは耐えきれずつい口にしてしまったとのことです。
そして後日、お義母さんにはご主人の口からハッキリと伝えてもらったそうです。『子供が産まれた時、嫁は、仕事を正社員からパートにして我が子のそばにいたいと言ったけど、僕の給料では足りないから、このまま正社員で復帰してくれ、とお願いして今の生活がある』と。
お義母さんの時代とは違い、今の世代のお給料が圧倒的に少ないこともお義母さんはわかっていなかったし、まさか息子と嫁の間でそんなやりとりや事情があったのも知らず、ただ、ママのお迎えを待つ孫が『ママはまだ?』と何度も聞くのが辛かったそうで、ついつい『可哀想に』と口に出てしまって、それがCさんを追い詰めていたとは思わなかったそうで、謝ってくれて和解をしたとのことでした。
お義母さんは別にCさんをいびっているつもりはなかったのです。
Cさんは、お義母さんには、『これからは、子供に対して【可哀想】というのは、本人がそう思い込んでしまうから言うのはやめてください』とお願いしたそうです。
お義母さんには何の悪気もなかったけれど、【可哀想】ということで、そこにはCさんの子供が被害者で、Cさんが加害者という構図ができてしまった。
お義母さんの気持ちはわかります。『ママはまだ?』と泣く孫を見たら、【可哀想】と思うのはお義母さんの孫に寄り添うが故の気持ちです。
Cさんの子供は実際に泣いてるし、お母さんが帰ってくるのが遅いことで辛い思いをしているのは事実です。
だけどそれを外から『可哀想に可哀想に』と言ってしまうと、子供自身に『あなたはお母さんが働いてるから可哀想な被害者』と植え付けることになってしまうのです。
先程の盲目の彼女のお話と同じですね。本人が自分を憐れんで生きていくことになるのを、知らず知らずに周りが植え付けてしまっている。言った側は同情しているだけのつもりでも、言われた側は被害者になってしまうのです。
可哀想だと決めつける権利は誰にもない
被害者意識になれば、幸せにはなれない
私はたびたび、このブログのあちこちに被害者意識になっては良くない、ということを書いています。
もちろん私も嫌な思いをしたら、被害者意識にはなりますよ😂前回のブログもそうですが『なんなのあの占い師!ひどい!!』ってなりましたからね(笑)
だけど、『違う違う、こういう現実が起きたというのは1つの事実であって、そこにポジティブ感情をもつかネガティブ感情を持つかは自分で決められる!』と切り替える視点を持つことが大事だと思っています。
何事も両面があるのです。
わざわざ不幸サイドの見方を自分が選んでいるだけだ、ということに気づけば、幸せサイドからも、ものを見ることもできるようになります。
これは普段ネガティブ思考が癖づいていると、なかなか難しく感じますが、練習すればできるようになります。
被害者意識になれば、その瞬間は楽です。自分は被害者、可哀想。こんなに辛い。周りからは同情したり優しくしてもらえる。
だけど永遠に被害者でいることは、本当の意味で幸せでしょうか。心は平和だと言えますか?自分は可哀想、と思っているのに。
引き寄せの法則で考えれば『被害者意識』を宇宙に放っているわけですから、『もっと被害者になるようなこと』を次々と引き寄せてしまいますね。そしてまた嫌だ嫌だと思うことが起きて『あー私は可哀想』と思う。そんな一生を生きていたい人っていますか?
確かに、悲劇のヒロインになりたがる傾向の人はいます。自らなりたがっているのなら本人は幸せでは?と思うかもしれませんが、きっとその悲劇のヒロインは『幸せな人』を目にしたら、イライラしたり妬ましい感情が起きているはず。
妬ましくなるということは『悲劇のヒロインになりたいと自ら演じているけど、実は幸せになりたい』という気持ちがあるからです。
他人に本人の感情を決めつける権利はない
今、ある有名夫婦の夫側の不倫が再び発覚しましたが、奥さんは子供のために再構築を選んだらしい、という記事がネットに流れています。
それに対して、他人のことだけどもみんな思うことはそれぞれで、コメントもたくさんついています。その中に、『子供のために夫婦を続ける、というけど、何度も不倫し続ける父親と、それを何度も許す母親が両親って、子供が可哀想』と書いている人がいて、それにイイネがたくさんついていました。
もちろん、そう思うのは自由です。『自分が子供だったらそんな親は嫌だな』と考えたのか、もしくは『自分がそんな子供時代だったから、そんな不倫ばかりする親なんて見てたくなかった、離婚してくれたらよかったのにとずっと思っていた』という経験があるかもしれません。
だけど、当人である今回の不倫した親の子供はまだ幼く、何もわかっていない状態のはずです。1桁の年齢の子供に『パパは他の女の人と浮気したけどママは許すよ』なんて話はまずしないでしょうから。
だったら、余計なお世話なんですよね、『子供が可哀想』というのは。
発した人のただの個人的な感想であり、子供は自分で可哀想とは今の時点では思っていません。
でもそうやってネットに記事が載って、たくさんのコメントがついたということは、その子供が将来目にする可能性があるということです。
『子供が可哀想』
こんなこと何の事情も知らない赤の他人に言われたら、腹が立ちませんか?しかも自分はなんとも思ってなかったりしたら、さらに『は?』ですよね。
『不仲なままで毎日喧嘩しまくりの親の元にいるのは辛かった。離婚して欲しかった』
と思うかもしれませんし、
『それでも片親でお金に苦労したり、片親だから、と偏見の目で見られたり、両親が揃ってないで寂しい思いをするよりは離婚しないでほしい』
と思うかもしれません。それは、人それぞれなのでわかりません。
『私だったらこう思う』のは自由ですが、他人の感情まで決めつける権利は誰にもないですね。
偏見をもつのをやめれば、可哀想な人はいなくなる
『可哀想』という言葉は基本的に目下の相手にしか使えない言葉です。
目上の人に使うと、違和感があるし、もし使えば、相手には上から目線の印象を与えます。
つまり、『可哀想』と使う時点でその相手を下に見ていると言っても過言ではないのです。
例えば、発展途上の国の、ご飯も満足に食べられない子供達。日本で暮らしている私達の目線ではついつい『可哀想』という感情が湧くのはわかりますが、その言葉が出るということは、『自分はご飯に困っていないから』という前提があり、自分の方が恵まれているからこそ出る言葉ですよね。
自分も同じ国で、今日食べられる物があるかどうかの生活をしていたらどうでしょう?同じ立場の周りの子供達に『食べられないんだね、可哀想』とは決して思わないはずです。
『日本に生まれ、当たり前に食べられていることに感謝する』もしくは、『他国の食べられない子供達に何かしてあげられる事は?』と少しでも行動を起こすのならば素晴らしいと思いますが、ただ『可哀想』と言ってるだけなら、何の心もこもってませんし、ある意味見下しているという事です。
可哀想に見える人はいますが、真に可哀想な人間なんていないんです。みんなそれぞれの状況で必死に生きているし、最善の選択をして生きている。それに対して、『可哀想』なんて言葉を使うのは自分の偏見から出た見下した言葉である、ということを念頭に置かないといけませんね。
私も、誰かにすごく嫌な思いをさせられた、という相談に対して、『その人たちは人の気持ちもわからない可哀想な人なんだよ』と言いがちです。
そこには『人の気持ちわからないなんて』という見下した気持ちがないと出てこない言葉ですね。
そうやって自分の中の『これが正しい』という思い込みから物事をみて、人は日々『これは良い、良くない』とジャッジして生きています。
ですが、宇宙には良いも悪いも存在しません。
人間として地球🌏で生きていく上で、これは良くない事だ、これは良い事だ、という基本的な価値観やルールが決まっているだけです。
もちろん、だったら宇宙的にはルールを守らなくてもいいよね?という悪いとされている事をするのに言い訳に使う為に言ってるのではないですよ。
ただ、やったことは返ってくる、それだけです。親切にすれば返ってくる、不親切にすれば不親切にされるというだけ。
大事なのは
人をジャッジせず、人の不快になる事や人の邪魔になることはやめよう、という気持ちがあればみんなが気持ちよく過ごせる
と、みんなが心に置いて行動すれば良いだけなんですよね。
そしてみんなが偏見をなくせば、可哀想な人なんて1人もいなくなりますね😊
可哀想と思ったら、可哀想に見える、という自分の見方がそこに存在するだけ、と考え直すようにして物事をいろんな角度から見るように訓練するといいですね。
今日もここまでお読み頂きありがとうございました✨
あなたに素晴らしい奇跡がたくさん起こりますように💖
waheguru💓
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